短編SS
feel
feel -3- 小文字版
feel -3-
放課後の教室に一人、僕はベランダ越しに特別棟を眺めていた。
遠くから聞こえる部活動に勤しむ声、楽しそうなざわめきが僕の孤独感をいっそう強める。
特に約束してたわけじゃない。
ただ、放課後になると必ず現れていた桐生綾華先輩が、今日は来ていないだけ。
昼休みには一緒に食事したのだから学校には来てるはずなんだけど。
「生徒会執務室にいるのかな……」
鞄をつかむと、例の一件以来 避け続けてきた生徒会執務室へ、重い足取りで向かった。
「あ、1−C の竹並正行くん」
困った事に、桐生先輩との出会いによって僕は 『 1−C の竹並正行 』 と呼ばれている。
『1−C の』と言えば続く台詞は十中八九
僕の名前だ。
フルネームどころの問題じゃない……
「こんにちは。あの──」
「先輩なら第一グラウンドにいると思うよ。今日は陸上部じゃないかな」
そして、僕の話題はすべて桐生先輩絡みだった。
何のとりえもない一生徒なのだから当然といえば当然なんだけど……
「そうですか、ありがとうございます」
お礼を言って執務室を離れる。生徒会長がいなくて良かった。
生徒会長のことを知る度に膨れ上がる、憧れに近い感情。
そんな相手から向けられる射抜くような視線は、僕を消沈させる。
割れんばかりの歓声によって僕の無意味な思考のループは寸断された。
いつの間にか、無意識に第一グラウンドに足を向けていたようだ。
声援につられて目を向けると、綺麗なフォームで目の前を走り抜ける桐生先輩が目に映った。
冷静な表情でまっすぐ前を見詰め、呼吸を乱すことなく走る。
トラックを回り、こちらを向いた桐生先輩と目が合う。
先輩は、かすかに安堵の表情を浮かべると、走るリズムを変える。
滑るような華麗なフォームから、飛ぶような脈動的なフォームに。
走り終えた先輩がタオルを受け取り、記録係の人と真剣な表情で話をしている。
タオルで汗を拭く仕草も、会話しているだけでも先輩の凛々しさが伝わってくる。
僕にはないものを持っている人たち……
いたたまれなくなり この場から去ろうとして、最後に先輩の姿を目に焼き付けようと
顔を上げると、こちらに向かって走り寄ってくる先輩と目が合った。
「来てくれたんだね。今日は話もできないのではないかと思っていたから嬉しいよ」
普段から表情の薄い桐生先輩からしてみれば、満面の笑みともいえる優しい笑顔。
僕は周囲の視線が気になって、先輩に声をかけることも笑顔を返すこともできない。
「ごめん、配慮が足らなかったね。中庭まで一緒にきてもらえるかな?」
僕の表情のわずかな変化すら先輩は読み取ってしまう。
口元に優しい笑みを浮かべると、先輩は僕の手を引いて中庭へ足を向ける。
「中庭の噴水辺りで待っていてもらえるかな。汗臭いままで君といるのは恥ずかしい」
そういうと、先輩は返事を待たずに水飲み場へ走り出した。
急いでいるのか、ユニフォームが濡れるのも気にせず汗を洗い落としている。
僕はそばまで歩いていき、無造作に置かれたタオルを先輩に手渡した。
「先輩、どうぞ」
「ありがとう。中庭で待っていてくれて良かったのに」
それでもタオルを手渡したのが嬉しかったのか、優しく微笑んでくれる。
先輩はタオルで拭くところを見られるのが恥ずかしいのか、早く中庭に行きたいのか、催促するように先を促すと僕を先に歩かせる。
「ここに座ろうか」
噴水に一番近いベンチを桐生先輩は指し示す。
僕がベンチに座るのを待って、先輩は少し離れた場所に腰を下ろした。
いつも寄り添うほど近くに座ることもあり、先輩の表情を伺ってしまう。
「やはり不自然かな? でも、汗臭い身体で君を不快にさせたくないから」
桐生先輩は少しだけ困ったような表情を浮かべる。
「そんな、桐生先輩のことで僕が不快に思うことなんてないです……」
「君は優しいな。さすがにこんな私でも好きな人の前では綺麗にみせていたい」
困った表情のまま優しく微笑む先輩。
水気を含んだユニフォームが肌に張り付き、プロポーションを際立たせている。
のどを伝い、形の良い胸に向かって滑り落ちてゆく一条の汗。
その動きに魅了され、先輩に見詰められているのに気付かなかった僕は慌てて目を反らす。
「桐生先輩はいつも、今も綺麗です……」
「君はいつも私の心を惑わせる。 今も寄り添いたい気持ちを自制することで精一杯だよ」
先輩はタオルを握り締め、こちらを見詰めていた。
「……あの、汗拭かないんですか?」
「そうだね、拭かないと……」
一歳年上だとは思えないほど大人びた桐生先輩。
平凡で冴えない僕が隣に座ってること自体おかしいくらいだ。
「……今日は、陸上部に顔を出す前に君の教室に向かうつもりだった」
先輩は目を伏せて呟く。
「その途中で顧問の先生に捕まってしまってね。そのまま連行されてしまったよ」
僕の顔を上目遣いで見上げると、口元に苦笑いを浮かべる。
「でも、君の方から私のところへ来てくれた」
安堵するかのような優しい微笑み。
中学生の頃から憧れだった先輩に、こんな表情で見詰められるとは夢にも思わなかった。
「今日はね、君が来てくれるまで酷い記録しか残せなかった。でも、君が見ていてくれるとわかった瞬間、全身に力が湧き上がって個人記録を塗り替えることができたよ」
ありのままの僕を認めてくれる。でもそれは先輩との距離が更に離れるような気がする。
「でも…… 僕はこのままじゃ駄目なんです」
先輩は唐突に飛び出してきた僕の発言に眉をひそめる。
「今の僕は何もしてない。こんなことじゃ先輩に相応しい男になれないんです」
それを聞いた先輩は真剣な瞳で見詰めてくる。
僕が発した言葉をかみ砕き、その真意を読み取ろうとする。
先輩には簡単に理解できただろう。
けれど、一つとして間違った意味に読み取らないようにと、真剣な表情で。
「わかった。君がここまで昇ってくるのを待つよ」
知っている限り、僕にだけ見せてくれるすべてを許容する微笑み。
聖母というのは先輩のような人だったんじゃないだろうか。
「でも、待つといっても君が成長する手助けくらい許してくれるよね」
「え、それはその……」
「今 私が頑張れるのは正行くんがいるから。君がそばにいてくれないと今までのように頑張ることができないんだよ」
そう言って僕の手を優しく握ってくる。
「……その、僕が先輩に相応しい男になったら正行と呼び捨てで呼んでもらえますか?」
先輩はゆっくりと力を込め、しっかりと手を握る。
「正行、君は今 私のために立ち上がってくれた。
既にこれ以上相応しい人はいないよ。
他人の評価なんて気にしないでいい。二人で誰にも恥じない関係を作り出していこう」
「はい、先輩。頑張りますので宜しくお願いします」
その言葉を聞いた先輩はおかしそうに笑う。
「先輩じゃないよ。綾華と呼んでくれないと対等にならない」
「……綾華先輩」
「先輩と付けるのは、今の私たちに相応しくないね」
「綾華さん」
唇に人差し指を押し当て考え込む。
「……今はそれで我慢しようか。いつか綾華と呼び捨てにして欲しいな」
そう言うと軽く腰を浮かせて近づき、唇を重ねてくる。
綾華さんの香りに包まれて唇に柔らかな感触が広がる。
「ごめん、汗をかいていたのを忘れてた。不快な思いをさせるつもりじゃなかったのに」
運動後だったことを思い出し、その表情に影を落とす。
「全然不快になったりしません。ただ、こういう場所でキスするのはちょっと……」
「正行は優しいな。 では、人目の付かない場所なら私も我慢せずに済むのかな?」
心底嬉しそうな綾華さんの笑顔を見ながら、僕はこれからのことを思い描いていた。
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