窓際の席に座り、カップから漂うインドモンスーンの芳香を楽しむ。
「この幸福を君と共有できない事がとても悲しいよ、ハニー」
街の喧騒を眺めつつ感傷に浸ってみた。うむ、絵になる。
女 「彼女もいないくせに気色悪い台詞吐かないで」
「詫び錆びという日本情緒も理解できないとは悲しいな」
カウンターの奥から突き刺さる辛辣な言葉に脊髄反射で返答する。
女 「多分ボケてるんだと思うから言っておくけど、侘び寂びでしょ」
日頃の調教の成果に満足しつつ声の聞こえてきた方向に向き直ると、
先程の女『津川夏海』の横で喫茶店のマスター『益田』が笑いを堪えていた。
益田「公人(まさと)君、感性を磨くのもいいけど会話を楽しむってのも
いいんじゃない? 夏海ちゃんも話したいようだし」
夏海「なっ。そ、そんな事誰も言ってません!」
益田「まぁまぁ。公人君も取り敢えず珈琲持ってカウンターにおいで」
マスターはニコニコしながら手招き。声にならない言葉を発しているらしい津川。
ふむ、その選択も面白そうだ。
三人で他愛もない会話を楽しんでいると出入口ドアのカウベルがガランと
小気味良い音を奏でた。来客のようだ。
夏海「あら、クーじゃない。いらっしゃ〜い」
クー。本名『陸海空』 冗談のような名前だが残念ながら『りくみ
そら』だという。
陸海さんは一度こちらを確認し店内を軽く見回した後、躊躇なく俺の隣に腰掛けた。
空 「こんにちは、隣失礼します」
公人「ちわ。今日も津川のお迎え?」
空 「はい、肝心な時に失敗するのが夏海ですから。あ、ニルギリお願いします」
夏海「なぁんかヒドイ言われようじゃない。たまにでしょ、たまぁに……」
思い当たる節があるようで津川の反論も語尾が弱々しかったりする。
空 「…………」
夏海「………………」
無言で見詰め合う二人。
あ、視線が泳いでる。津川の負けっぽい。
益田「はい、ニルギリ」
空 「ありがとうございます」
カウンターに置かれた紅茶の香りを楽しんだ後一口
口にする。
夏海「でもクーも用事がなくてもやって来ては公人の隣に座るじゃない。
公人に気があるんじゃないの〜?」
ニヤニヤ笑いを浮かべて陸海さんに反撃を試みる津川。それに反して冷静にミルクを
数滴紅茶に落とす。
空 「公人さんの事は嫌いではありません。それに夏海と話すには公人さんの
隣に座った方が効率がいいですし」
公人「は?」
夏海「…………」
津川を見ると真っ赤になって可聴域から外れた言葉を紡いでいる。器用だな。
空 「客観的に見て夏海はまさ──」
夏海「で! 今日は何の用かしら! 紅茶を飲みにって事じゃないわよね!?」
出た、荒業だ!
自分のふきだしを相手のふきだしに重ね発言を無効化させる大技。
基本にして最終奥義。
マンガと違いSSでやられると意味がわからなくなる。
津川が王様モードに入る前に手を打たなければ!
公人「そういえば陸海さんって紅茶好きだよね〜」
沈黙。やばい、これは外したか。
空 「紅茶は好きです。特にニルギリは最高だと思います」
カップを両手で持ち紅茶を眺める空。何となく幸せそうに見えなくもない。
夏海「クーの部屋に行ってもニルギリしかないのよねぇ〜。ダージリンくらい
普通常備するモンでしょうが」
空 「二ヶ月。せめて三ヶ月以内に消費するのが茶葉に対する礼儀です」
おぉ、瞳が蒼く燃えている、ように見えなくもない。
夏海「自室でならともかく、さすがに三ヶ月でってのはねぇ〜」
公人「だったら今度ご馳走してよ。いつでもいいからさ」
夏海「ちょ、アンタまさかクーに手を出すつもりじゃないでしょうね!」
どうしてアナタは鋭角的に飛躍した考えができるんだろねぇ。
空 「大丈夫。夏海の彼氏に手は出さな──」
夏海「ばっ、こんなのが彼氏なわけないでしょ! 私はそんなに趣味悪くない!」
あまりにも、な発言に一瞬意識がホワイトアウト。
紅茶をご馳走してと言って10秒も経たない内にここまで痛烈な批判を受けるのか。
空 「…………」
って陸海さん、何まじまじと俺を観察しているんですか?
空 「個人的価値観の違いですね。私見ですが、悪くないと思います」
天使か!? 貴様は。
っていうか、津川。怖いから唸り声を出さないでくれ……
夏海「ま。まぁ、徹底的に磨けば見れなくはないかもね」
あさっての方向を向いてフォローらしき発言をする。
公人「それはフォローなのか? そうには聞こえないんだが……」
空 「素直に好きなら好きと──」
夏海「ば、そんな事これっぽっちも考えたことないんだからね!」
背中に爆煙を背負う津川。演出効果もキマっている。
まぁ否定するのは構わないけど、完全否定は結構傷つくんですが……
空 「そうですか。バイトの時間も過ぎたようですね、帰る準備を──」
夏海「って、クー聞いてる? ホントに──」
空 「今日は定例会議の日です。収支報告、活動しん──」
夏海「っ!? すぐに準備するから黙ってなさい!」
陸海さんに釘を刺すと津川は慌ててバックヤードに駆け込んでいく。
聞かれると何かまずい事でもあったのか?
超重力が空間を支配する。俺はこの沈黙に耐え切る自信がない。
空 「ところで公人さん」
さすがは陸海さんだ。この空気をものともしない強靭な精神力。
公人「……ん、何?」
俺にはこれだけ言うのがやっとだ。
空 「明日お暇でしたら、お茶会に参加しませんか?」
公人「特に予定入ってないよ、マナーとか形式とか知らないけどね」
空 「言い方が悪かったようですね。紅茶とお菓子を摂りながら雑談する感じです」
公人「それなら参加させてもらうよ。タキシード必要なさそうだし」
空 「普段着で結構ですよ。では午後二時に駅前で構いませんか?」
公人「了解」
陸海さんの表情が柔らかくなる。普段は美人って感じだけど笑うと可愛いかも。
バックヤードの扉を荒々しく開き津川が飛び出してくる。落ち着け津川、怖いから……
夏海「クー…… 余計なこと話してないわね?」
かすかな殺気すら漂わせて問いかける。間合いを計るかのような摺り足。
冷静に紅茶を飲む陸海さんと好対照だ。
っていうか、そこまで神経質になるほどの事なのか?
空 「いえ、特に問題となるような会話はしていません。では行きましょうか」
夏海「そう、ならいいわ。じゃあね公人、お菓子あげると言われても知らない人に
付いていっちゃ駄目だからね〜」
公人「俺は子供か!?」
あはは〜と背中越しに手を振る津川と軽く会釈して立ち去る陸海さん。
カウンターに向き直ってカップに残った珈琲を飲み干す。
ふと視線に気付いて顔を上げるとマスターと目が合った。
公人「…………」
益田「ゆうべはおたのしみでしたね」
貴様は宿屋のオヤジか!?
公人「俺の反応見て楽しんでたのはマスターでしょうが」
脱力感を感じ肩から力が抜けてしまう。マスターが横にいるのを忘れてたよ……
益田「いやいや、そんな事ないよ。ところで〜」
と言ってカウンターに乗り出し軽く手招きするマスター。
仕方なく内緒話モードに付き合う。
益田「多分気付いてないんじゃないかと思うから忠告しておくけど、夏海ちゃんって
ファンが多いから気をつけてね」
公人「別に津川と仲がいいって事ないですし、イジられてるだけですよ」
益田「可愛い女の子。っていうか、美人二人に囲まれて仲良く会話してるってだけでも
目立つからねぇ」
心配してるんだよ、といった感じで溜息をつくマスター。
公人「別にそういうんじゃないし、外で会ってるわけでもないですって」
益田「まぁ気付けってのが無理だと思うけど、夏海ちゃんのシフトの時って
お客さん倍増するんだよね」
なんですと?
言われて気付いたが背中に刺さる視線。敵意、いや殺意!?
益田「今更なんだけど、露骨に態度変えたり店に来なくなると逆に要らぬ誤解を
招きやすいから気付かない振りしてた方が身のためだよ」
ニッコリと死刑判決を下すマスター。 ……絶対楽しんでやがる。
作者注
インドモンスーン:独特な香味を持つマニアックな芳醇な珈琲。インドに吹く貿易風『モンスーン』
に晒し、乾燥させる事で独特の風味を作り出している。
ニルギリ :インドの南部で収穫される茶葉で、すっきりとしてコクのある味と香りが特徴。
主にミルクティー・アイスティーとして親しまれている爽やかな紅茶。
ダージリン :インドの北部で収穫される茶葉で、英国のエリザベス女王が絶賛した事で有名。
バックヤード :店舗を運営する上で必要な空間、設備の事。